死は永遠の生への通過点。イスラム教の死生観に日本人が学ぶべきこと
チュニジア・マハディアの墓地。町外れの高台の墓地に、町のすべての人が埋葬される。墓は家族のものではなく、個人のもの。またイスラム教徒は墓を、復活までの死者の肉体の一時的な置き場としかみなしていない。
イスラム教の死生観とは?あの世はあるのか?亡くなった時は火葬する?葬式やお墓はどんな感じ?
そんな疑問にわかりやすく答えます。
20年以上イスラム圏の人々の中で暮らす中で、多くの死に立ち会ってきました。
イスラム教では死を「永遠の来世への通過点」ととらえ、マイナスな事柄とは考えません。
通過点なので、葬儀や埋葬も簡素です。
そして誰もが死後天国へ行けると信じているため、死の不安に襲われることは日本人よりは少ないように思います。
イスラム教の死生観とは?
イスラム教では現世と来世があり、今生きている現世は「仮」の世界、「来世」が本当の「生」と考えられています。
つまり「死」をはさんで2つの生があるのです。
死は来世への旅立ち、通過点であり、人生の終わりではありません。
来世は永遠で天国と地獄に分けられ、どちらに行くかは生前の行いで決まります。
善行が多ければ天国へ、そうでなければ地獄へ。(参考:イスラムの天国と地獄とは?)
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死後すぐに天国・地獄へ行くわけではなく、終末の日まで墓の中で眠っています。
終末の日がいつなのかは誰にもわかりません。神だけが知っています。
そして終末の日にすべての死者が復活させられ、神の前で審判を受けます。
生前に善行に励んだ者は天国に入れられ、そうでない者は地獄で永劫の責め苦を受けます。
生きている間、人間の両肩には天使がいて、善行と悪行を記録しています。その記録をもとに、神が審判を下し、天国に入るか地獄に入るかが決まります。
人間の魂は、死んだら一度肉体から離れ、終末の審判の時に、生前の肉体と結び付いて復活します。
「火葬」は厳禁
イスラム教徒は火葬をしません。必ず土葬です。
火で焼かれるのは、地獄の懲罰と同じだからです。(参考:イスラムの天国と地獄とは?)
コーランに描かれた地獄は「火獄」です。
(参考:「コーランとは?日本人が知らない真実」)
グラグラと燃えたぎる火があり、そこに放り込まれます。
焼かれて皮膚がはがれ、再生したら、また焼かれてはがれ‥‥そのくり返し。
つまり火で焼かれることは、地獄の懲罰と同じなのです。
コーランで火葬が禁じられてはいませんが、火葬は肉体を損傷することであり、忌み嫌われます。
預言者ムハンマドの時代は土葬しかなく、火葬は想像しえなかったからだろうと言われています。
さらに肉体を焼いてしまうと、神の審判を受けられなくなります。
先に書いたように、死の際に魂は肉体から離れ、終末の日にまた肉体と結び付いて復活しますが、肉体が無かったら、終末の日の審判が受けられません。
葬儀と埋葬は簡素

タイのイスラム教徒の島で、亡くなった人をモスクに運び込む男性たち。イスラム社会では、死亡が確認されたら、すぐに葬儀、埋葬する。
「死」は永遠の来世への通過点との位置づけであるため、葬儀や埋葬は簡素です。
死後はできるだけ早く埋葬
亡くなったら、できるだけ早く、その日のうちに埋葬されます。
近親者であっても、「最後のお別れ」ができないことが少なくありません。
<葬儀の手順>
①死亡が確認されたら、遺体は同性の近親者の手で湯灌(ゆかん)され、3枚の生成りの木綿布で巻かれる。
②自宅か近隣のモスクで葬送の礼拝を行う。礼拝は遺体を前にしての立礼のみ。お辞儀やひざまづく礼拝は行わない。死者と自分たちへの赦しと慈悲を願い、5分ほどで終わる。
③墓穴の中に、死者の右脇腹を下に、顔を聖地マッカ(メッカ)のカアバ神殿の方向に向けて横たえ、その上に土をかける。
④集まった人々がコーランの章句を朗誦し、冥福の祈りをささげ、埋葬を終える。
墓参りは?墓は「仮の住処」
墓は「終末の日までの一時的な遺体置き場」という位置づけで、とても簡素です。
イスラム教の教えに厳格なサウジアラビアでは、墓碑もなく、遺体が埋められていることを示す石が置かれているだけです。
他の国々では墓碑や墓標が立てられていることが多いが、それも簡素なものです。
墓を末代まで守り、維持していくという考えもありません。
墓はあくまで死者個人の一時的な死体の保管場所。「〜家の墓」というものはありません。
墓参りもすることもありますが、日本ほど熱心には行いません。
葬儀に参列する際の注意点
葬儀で喪服を着る習慣はなく、ごく普通の服装です。
もしイスラム圏の国で葬儀に参加する場合は、男性はダークスーツに黒のネクタイで十分です。
花や香典などの供物を持参する習慣はありません。
花はお祝いのためのもので、逆に失礼にあたります。
イスラム教の死生観に学ぶこと
葬儀や埋葬が簡素。遺体を物理的に傷つけない
日本での葬儀の平均費用は190万といわれています。
イスラム教徒にとって、死は永遠の生への通過点。
墓は終末までの「仮の居場所」に過ぎず、葬儀や埋葬も簡素です。
この点、イスラムの死生観は一考に値するでしょう。
いつも死を意識することが生を有意義にする
イスラム教徒は日常的に死を意識しています。
小さな頃からコーランを読み、そこに書かれた来世の天国と地獄を存在を教えられて育つからです。
来世で天国へ入るために善行を心がけています。
よりよく死ぬために、よりよく生きると言えます。
いつも死を意識することが、生を有意義なものにします。
死はマイナスではなく、生きるのが楽になる
死は永遠の生への通過点。人生の終わり、マイナスではありません。
そのために必要以上に死を恐れることがありません。
これが生きる上での不安や悲しみを和らげ、生きることを楽にします。
親しい人が死んでも天国で再会できる
死者は来世で永遠に生きています。
親しい人を失った人は別離の悲しみはあるものの、「来世でまた会える」と思えることが、大きな救いになります。
*
私はエジプトの砂漠で1人で移動生活を送る遊牧民女性サイーダを取材しています。
印象に残っているのは、彼女の末息子が亡くなった時のことです。
彼は舗装道路を歩いていて後ろから来た車に接触され、すぐ病院に運ばれたが助かりませんでした。
事故が起きた時、家族や親戚がサイーダに知らせようとした。
が、いつも移動して携帯を持たない彼女に誰も連絡がとれない。彼女は息子の最期に立ち会えなかった。
後になって彼女は私にこう語った。
「あの子の死は神様が決めたんだ。今ごろ天国にいるさ」。
身近な人が亡くなった時、ムスリムは「神様の思し召しで天国へ行った」と思う。そうやって死を受け入れる。
悲しいことには変わりがない。大切な人がいなくなるのは、とてつもない空虚感だ。
しかし来世を信じているから「自分が天国へ行った時、再会できる」と思える。死は永遠の別れではなくなる。
(「女ノマド、一人砂漠に生きる」)
「死んだら天国へ行ける」揺るぎない安心感
日本人は「死んだらどうなるのだろう?」「死ぬのが怖い」と漠然とした不安を持っています。
イスラム教徒は死後の世界のイメージが明確で、不安は小さいと言えます。
コーランに天国の様子が明記され、誰でも「善行していれば天国へ行ける」というゆるぎない安心感を持っています。
天国では永遠に楽しい生活が送れます。
80代のある高名な作家が、「老人になって宗教に頼る人がいるが、自分はそのつもりはない。宗教はしょせん人間がつくったもの」と著書で書かれていた。
確かにそうかもしれない。神がいるかいないか、誰にもわからない。
でもそれなら信じるほうが得ではないか?とも思う。
「私には神様がついている。来世は天国へ行って永遠に楽しく暮らすことができる」と信じて生きるのと、「死んだらどうなるかわからない」と不安を抱きながら生きる、どちらが幸せだろう?
宗教は人がつくったものかもしれない。しかしそれは心安らかに生きるための一種の知恵であるかもしれない。
(「イスラム流幸せな生き方」)
イスラム教の死生観に興味ある方の参考になりましたら嬉しいです。
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