宗教は生きる上で必要ですか?
人はなぜ宗教を必要とするのでしょう?
そんな疑問に答えます。
考古学や歴史学の知識が遡っていけるかぎり、イスラムやキリスト教など世界宗教が生まれる以前から、人類社会には宗教があったといわれています。
なぜ人は宗教を必要とするのでしょう?
「死んだらどうなるか?」に答えてくれる
宗教に意味があるとしたら、「死んだらどうなるか?」に明確な答えを与えてくれることです。
「死んだ後に来世がある」「良い行いをすれば天国にいける」
科学は「死んだらどうなる?」には答えてくれません。
「来世とか天国なんて非科学的だ」と笑うことは簡単です。
しかしそういう私たちだって、無意識にこう考えませんか?「どうか死んだら天国にいけますように」「死んだあの人は、きっと今頃天国にいるよ」
「死」は人間にとって「究極の」不安です。私たちは日々、様々な不安をかかえて生きていますが、それらは「死」への不安に比べれば、取るに足りません。
病気になったらどうしよう?テストに落ちたらどうしよう?と不安になりつつ、一方でこうも考えます。
「テストに落ちても死ぬわけじゃない」
つまり「死」に比べれば、病気やテスト云々の不安は取るに足らないもの。
そしてどんなにお金や地位があっても、「死」の不安からは逃れられません。
人間にとって根源的な不安が「死」です。
「死」の不安がなければ、人生はずいぶん楽しくなります。
この根源的な不安から脱出するため、太古から人々は宗教に解決を求めてきたのです。
死を考えまいとする日本人
しかし宗教ばなれしつつある現代人(日本人)は「死への不安」から逃れられません。
そこで「死」について考えることを避けようとします。
ガンになったりして、「余命○ヶ月」と宣言されてはじめて、死を意識する。
そして激しく後悔します。
「ああ、あれもやっておけばよかった」
「がむしゃらに仕事しないで、もっと家族を大切にすればよかった」
死に連なる「老い」も、悪いものとイメージされます。
そこで「アンチエイジング」に励むことになる。「努力すれば、いつまでも若くいられる」と錯覚するのです。
もちろん若くあろうと努力するのは素敵なことです。私だって、できればいつまでも若くいたい。
しかし現実はそうではありません。
どんなにアンチエイジングしたつもりでも、いつかは「老い」に向き合わなければならない。
若さに価値を求めてきた人は不幸です。老いた自分と、どう向き合あっていいか、わからないからです。
「人間には限界があり、いずれ死ぬ。人間は老いるもの」それを受け入れることで、幸せに生きられるのです。
「死」を意識することで、より良く生きられる
砂漠に暮らす遊牧民女性サイーダは、1日5回の礼拝を欠かしません。礼拝時はいつも「死」について考えるという。「あと5分後には死んでしまうかもしれない」。
最初それを聞いた時、私は(そんなに死のことばかり考えたら、つらくないのか?)と思ったものです。
もっと楽しいことを考えればいいのに。
しかし違いました。
「死」を意識し、命が限りあることを日々自覚して生きることで、大切な「今」を無駄にしないで生きることができるのです。「今」を充実したものにする。
これは、ずいぶん後になってから、わかりました。
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人間いつ死ぬかわからない。それは1ヶ月後かもしれないし、明日かもしれないし、5分後かもしれない。
今生きていることは「奇跡」なのです。
それを知ることで、今自分が「ある」ことに感謝できる。
健康も永遠ではない。そう思えば、今の健康に感謝の気持ちが生まれてきます。
ごくごく普通の日々の連続こそが幸せなのです。
多くの人がコロナで亡くなっている。死は全然遠くないことで、むしろすぐ近くにある。
自分が今健康であることは奇跡であり、感謝すべきことなのです。
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なのに多くの人は「死ぬ存在」であることを忘れ、5年、10年「先」の夢を実現するために、今を生きています。
でもその5年後、10年後は、来ないかもしれない。
そして「絶対にやりたい」と思っていたことをやらずに人生が終わってしまうかもしれません。
「とりあえず、5年の生き方」という本がありましたが、「5年」は長いです。今日が「人生最後の日」と思って生きる必要がある。
明日があるという希望は持ってもいいけれど、本当に来るとは思わない方がいい。
やりたいことは、今すぐやるべき。
そのために「死」をいつも意識する。それが後悔しない生き方です。
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