「人は弱い」と考える点にイスラムの大きな特徴があります。
人は弱く不完全な存在だと認める。
全知全能で偉大なアッラーに比べ、人はあまりにも無力でちっぽけで存在。
その弱いもの同士、助け合って生きよ、弱い人には手を差し伸べよ。これが信者の義務とされます。
人は弱い
イスラムでは「人間は弱い」と考えます。
『地上をあまりいい気になって闊歩するでない。
別にお前に大地を裂くほどの(力がある)わけでもなし、高い山々の頂上まで登れるわけでもあるまい。』
(「コーラン」17:37)
人の力には限界がある。だから「自然を支配できると思って、いい気になるな」ということです。
そんなちっぽけな人間が、偉大なる神に身を委ねて生きる。これがイスラムの根本思想です。
弱者救済の思想
人間は弱く、不完全なもの。この世の中に、間違いをしない人間なんていない。
だから私たちは、たがいの間違い、愚行も許し合わなければならない。
弱い人同士、互いに助け合って生きよ。弱い立場にある人間を助けよ。
これが信者の基本的な人間関係です。
「弱者を助けること」を義務としている点が、イスラムの大きな特徴です。
弱者とは、貧者、孤児、病人、老人、旅人、女性などです。
これら弱者への対処については、コーランに示されています。
貧者
貧者への施し(喜捨)は、コーランに定められた義務です。
「アッラーの道に専心し、(商売の目的で)大地を巡ることができない貧しい人たちのため(に施しなさい)」
(2:73)
「喜捨(きしゃ)の用途は、まず貧者に困窮者、それを徴収して廻る人、心を協調させた人、(途中略)、旅人、これだけに限る」
(9:60)
喜捨には義務と任意があります。
義務の喜捨は「ザカート」といい、1年間の収入のうち決まった割合を払うもの。それが諸機関を通じて貧者に分配されます。
もちろん家族が食べていくのがやっとな人に、この義務はありません。
任意の喜捨は「サダカ」といいます。
病人
病人は信者の義務であるラマダン月の断食を免除されています。
「病気や旅路にある人は、別の日に(できなかった)日数を(斎戒)することができます。
アッラーはあなた方に容易をのぞみ、困難を望みません。」
(2:185)
孤児
この場合の孤児は、片親がいない子どもも含みます。
孤児救済の教えは、コーランのいたるところに書かれています。
「孤児を虐げてはならない」(93:9〜11)
「孤児と付き合う時には自分の兄弟として付き合うように」(2:220)
これは預言者ムハンマドが孤児だったことも関係していると言われます。
老人
高齢者を敬うことも、イスラムが大事にしている価値観の一つです。
「親孝行しなさし。もしかれら(両親)の一方もしくは両方が、あなたの元にいながら高齢に達しても、彼らに(辛抱をきらして)舌打ちをせず、言葉を荒立てず、敬意を払って話しなさい」(17:23)
「親にやさしく」とはあるが、「老人(一般に)にやさしくしろ」とはありません。
しかしイスラム教徒たちは「老人は他人の親、自分の親と「親」であることには変わりがない。だからやさしくするのだ」と言います。
地下鉄で老人が乗ってきたら、座っている若者はさっと席をゆずります。
年老いた両親を老人ホームにあずけるという発想がないため、老人ホームも非常に限られています。
旅人
イスラムでは旅人も弱き者と考えられています。その土地のことを知らない「弱者」だからです。
「両親にはやさしくしてやれよ。
それから近い親戚や孤児や貧民にも、また縁つづきのものや血縁の遠い被保護者、(僅かな期間でも一緒に暮らした友)、道の子(旅人)、自分の右手の所有にかかるもの(奴隷たち)にも。」
(4章36節)
旅人はラマダン月の断食も免除されます。
イスラムで旅といえば、代表的なのは「メッカ巡礼」です。
イスラムが興った時代、旅は非常に困難でした。車も飛行機もない。何ヶ月も、時には1年以上かけてメッカにたどりつく。
コーランにも「彼らは徒歩で、あるいはやせたラクダに乗ってやってくる」と書かれています。
ラクダやロバなどで旅ができたのは富裕層だけ。そのために旅人を保護する必要があったのでしょう。
女性
イスラムでは女性は「守るべき存在」とされています。
たとえば結婚後は夫が家計を担う義務があります。妻が収入が上でも、です。
「アッラーはもともと男と(女)の間には優劣をおおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男がだすのだから、この点で男のほうが女の上に立つべきもの」
(4章34節)
「男が上」とありますが、これは肉体的な優劣のことです。
男性の方が体力がある。だから「男が稼げ」というわけです。
「男女差別だ」と批判されそうですが、男女は肉体的に違います。女性は生理がある、出産もする。働くのが辛い時もあります。
だから男性が生活費は責任持てというわけです。
イスラムは女性差別というイメージがありますが、実際にはそうではないのです。
「人は弱い」とする社会と「人は強い」と考える社会
世の中には2通りの考え方があります。
①人は弱い(不完全)
②人は強い(全能)
現代社会は②に近いと思います。頑張れば何でも達成できる。
そして「強いのが良いこと」と知らないうちに思わされています。
「弱音を吐くのは悪いことだ」「安易に他人に頼ってはいけない」
しかし本当にそうでしょうか?
そのために生きずらさを感じる人が、多くいるのではないでしょうか?
「人は強い」「強くなければいけない」という考えは、人に優しくありません。
無理が生じます。
「強くて当たり前」と考える社会では、そうでない人は引け目を感じます。
弱い自分はダメ人間ではないか?という劣等感。
他人に助けを求めることへの躊躇が生まれます。
「人は弱い」と自覚すれば生きるのが楽になる
「人は弱いもの」と思えるようになると、気持ちが楽になります。
できない事があるのが当たり前。他の人に助けてもらえば良い。
人は完璧ではありません。
神ではありませんから、できないこと・劣った部分があるのは当たり前です。
それを忘れ、「人間は強いもの」「強くなければならない」と思いこんでいる人が多い。そこから様々な無理が生じます。
「人は弱いもの」「できない事があって当たり前」と思えれば、自分にも他人にもやさしくなれるのではないでしょうか。
「社会の役に立つ人間は立派な人間である。存在する理由がある。社会の役に立たない人間は存在するわけがない、という考えかた。あるいは強い人間、有名の人間、豊かな人間だけをもてはやす時代の風潮を見ていますと、私たちは最近の犯罪が社会の弱者に向けられることが多いのに、改めて気づきます。
大阪でもホームレスの老人を道頓堀の川に放り込んで死なせるという事件がありましたが社会の弱い部分に向けて暴力が振るわれる傾向が、少しずつ大きくなってきているということを深刻に受け止めざるを得ないわけです。
ぼくらは、人間は努力して世のため人のために尽くし、そして名を上げ、という明治以来の出世主義そのものをストレートではないにしろ受け止め、何かやるということを大切に思って育ってきた世代です。
しかし、今あらためて考えるとき、何もやらなくてもよい、失敗した人生であってもよい、それはそれで、人間として生まれてきて、そして人間として死んでいく。その事において、まず存在に価値があるのだ、と思うことがある。」
(『大河の一滴』)
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