「婦人公論」日本人ベリーダンサーKASUMIエジプトの地に舞う

木村かすみ 木村かすみ(2)(婦人公論2008年11月7日号)

(本文)

日本人に踊れるわけがない

 学生時代から体を動かすことが大好きで、クラシックバレエやジャズダンスなど色々な踊りをやっていました。短大時代にはエアロビクスやヨガなどのインストラクターの資格をとり、商社に就職してからは、インド舞踊にも挑戦しました。
 でも私の中には、もっと他に体を通して自分の中の熱いものを表現したいという気持ちがありました。それは女性らしい、セクシーで妖艶で上品でエレガントな踊り。今までのダンスでは自分を表現できないことは確かでした。
 そんなとき、映画「サロメ」でリタ・ヘイワースが踊っているダンスを見て、強く魅せられたんです。それがベリーダンスというもので、アメリカではポピュラーな踊りだということを知り、ロサンゼルスにいる有名なダンス教師を訪ねました。一ヶ月の個人レッスンを集中的に受けると、踊りの基礎があったためでしょうか、すぐに上達し、日本に帰ってから、それまで教えていた読売カルチャースクールで教室を開き、その数ヶ月後にはレストランで踊っていました。
 
 その後もっと違うスタイルを伝えていかなければと、仕事の合間をぬってはトルコに渉りました。エジプトが本場だというのはわかっていました。でもいきなりここに来るのが怖かったんです。トルコでは伝説的なダンサーであるネスリン・トプカピに習いました。振り付けを伝授され、やがてトルコの三大ナイトクラブであるキャラバンサライやオリエントハウスで、東洋人として始めて踊って、自信をつけました。
 やがてトルコの限界を感じるようになりました。もっと違うスタイルを学びたい、それには本場に行かなければ、とようやく意を決してエジプトに来たのです。
エジプトの歴代の有名なベリーダンサーの振り付けは、すべてイブラヒム・アーキフ氏が手がけてきた。彼女はその頃すでにプロとしてデビューしたいという気持ちが芽生えていた。
 イブラヒム・アーキフ氏に「デビューしたい。それもファイブスターホテルで通用する振り付けを教えてくれ」とお願いしました。ベリーダンサーとしての一番のステイタスは、五つ星ホテルのナイトクラブで踊ることなんです。
 でも現地では「おしん」のイメージが広く浸透していて、日本人は従順でおとないしいと思われているんです。だから最初のうちはオーデションすら受けさせてもらえませんでした。それでもマリオットホテルのマネージャに「どうしても写真だけでも見てくれ」と直談判しに行きました。ハーフっぽい化粧を研究し、自分の容貌を見せるために体の線がはっきりとわかる服を着て。すると「オーでションをやらせてみようか」という話になり、受かってしまいました。
 その頃、ベリーダンスの教室は渋谷、自由が丘、恵比寿などに次々と開講して、生徒さんも増えていました。収入的にも恵まれていた。それらを捨ててエジプトへ行って、果たしてやっていけるかどうかわからない。でもこのチャンスを逃したら、もう一生めぐってこないかもしれない。ダンサーには若さが要求され、商品になる時期というものがあります。後悔したくない…苦渋の選択の末、日本で教室をしめることにしました。母親には「女の人生にとって一番大事な時期なのよ。結婚とか将来のことを考えないといけない。…(略)」などといわれました。両親は離婚していて、母は女手一つで私を育ててくれました。そんな母を安心させてあげたい気持ちも強くありました。でも私はせっかくつかんだチャンスを逃したくなかったんです。
 
ダンサーイコール娼婦
 エジプトは他のアラブ諸国と比べてイスラム教の戒律の規制が緩いとされるが、もともと女性が人前で肌をさらすベリーダンスへの風当たりは強い。
 エジプトに来たら、この踊りは尊敬されるべきものではありませんでした。何をしてるのと聞かれて「ベリーダンス」というと、それだけで相手の顔つきが変わる。ニヤニヤされたり、イージーな女性だと思われたり…。
 今でも忘れられないのは、マリオットホテルで契約が取れてすぐに、高級ナイルクルーズ船で踊る話がきた時のことです。オーデションに受かり、マネージャーもOKした。その後、船のオーナーに食事に誘われました。食事がおわって車で送ってもらう途中、彼の家に連れて行かれそうになりました。必死で断った後で、彼に言われた言葉が強烈でした。「ドント・ビー・ベイビー」。この業界で上手くわたっていきたかっら、もっと大人になれよ。
 でも私はそれで契約がとれても、良い結果が出ないことはわかっていました。私は踊りで勝負したかった。結局その仕事はキャンセルされてしまいました。でもその後マネージャーが着き、そういう嫌な思いはほとんどなくなりましたが。
 それ以降も、「日本人に踊れるの?おしんみたいじゃないの」とたびたび言われて続けてきました。そのたびにマネージャーが「見ればわかるから」。彼がトライしてみようかという所のオーデションを私がことごとくパスしてしまい、どんどん忙しくなってしまいました。
一回約45分のステージを深夜から朝にかけて数カ所でこなす生活が続いた。98年からはファラオというナイルクルーズ船でおどるようになり、すぐにお客さんの人気を得て、「ファラオというとKASUMI」といわれるまでに。
 私がいなければこのボートはなりたたない、みたいにうぬぼれていて、知らず知らずのうちに態度に表れていたのでしょう。他のダンサーからのねたみや嫉妬を知らない間に受けていたのだと、今になって思います。
 いつも飲むミネラル水に、ある日ファンデーションが入っていたんです。同じボートで踊るダンサーの嫌がらせでした。「次は何をやられるかわからない」。セキュリティに訴えると、「モスリーヤ・モンケン(エジプト人女性ならやりかねない)」と一笑されて何もしてくれない。ゾッとしました。このまま行ったら私は何をされるかわからない。水に毒を入れられるかも…そしたらどうやって自分の身を守ったらいいんだろう。…(略)
 以後も忙しい日々が続き、その事件後すぐに私は毎日眠れなくなりました。マネージャーに仕事を減らしてくれと言ったけれど、それは無理と言われ…やっとのことで日本に一ヶ月休みをもらって帰ったものの、いっこうに症状は良くならない。やっぱり私には踊りしかないと、エジプトに戻りました。それ以降は仕事を週に二、三日に制限してもらい、かつ仕事を選んでくれと頼みました。それまでは来た仕事はすべて引き受けていました。一人でエジプトに乗り込んで、必要以上に頑張らなければいけないと思って。常に闘争しなければならないと…。日本人ダンサーとしての前例がない。自分がその先例をつくるんだと突っ走ってきました。何より適齢期を過ぎた頃のデビューだったから、遅れをとり戻したいという気持ちも強かった。もっと早くベリーダンスに出会っていたら、せめて二十歳くらいで踊りをマスターしていたら、もっと色々やれたのにと…ある時、ふっとあるがままでいいと思うようになった。そうなるまでに半年くらいかかりました。
  
本場で踊る醍醐味
これまで一流ホテルではすべて踊りつくしてきた。99年10月にはエジプトのアーミークラブで行われたウェディングで踊った人気ナンバー1ベリーダンサーに選ばれている。ウェディングという一生に一度の大切な場に外国人であるKASUMIが多くリクエストされるという事実は、彼女がエジプト人に受け入れられ、いかにその踊りが評価されているかを示すものである。

 最初ここに来たときは、エジプト人はなんていいかげんなんだろうと、いつもあきれていました。時間は守らない、衣装を作るのでも何でも、いついつまでにできると言ったのが、できていないのは当たり前、結婚式が何時に始まるというのが、なかなか始まらなかったり…一年間くらいはキレてばかりいました。でも日本で育って日本の常識でやっているからそうなるだけで、こちらにはこちらのやり方があるんじゃないか、と思えるようになってから気持ちが楽になりました 。
 日本は何でもオーガナイズされている。でもテクノロジーの進化ばかり激しくて、人間としての感情を失いつつあるようにに思います。エジプトはまだまだ人間の感情の豊かさとかエモーショナルなものを感じることが多いんです。道でたおれても日本なら知らんぷりされる。でもここではたちまち何人も集まってきて、まずほったらかしにされない。生活の根幹に宗教がしっかり根付いているせいもあるのでしょう。
 ダンサーに対してもテクニックだけではない、人間味を求めているんです。ここでは観客がいろんな形で反応を示してくれる。そのうちに、どういう踊りをすると客がノッてくるか経験でわかるようになり、踊りながらお客さんのノリ、表情をつかんで、彼らの要求するものを感じ取って踊りを変えていく。観客はダンサーと目線が同じ位置で観るものなんです。観客と一体になって作り上げられるもの。踊りは観客との人間対人間のぶつかり合いです。見ている人のリアクションを通して踊りが通して深くなっていく。ここではただ踊りができればいいでは通用しないし、綿密に計算されたものをその通りにやったからブラボーって言われるわけじゃない。客とのコミュニケーションができなければ…。ベリーダンスはいつも即興です。また私の踊りに合わせて楽団も演奏を変える。私が彼らの即興にリズムに答えたりもする。楽団とダンサー、観客の三位一体で盛り上がっていくのが何とも言えないベリーダンスの良さ。お客さんの空気がよめなければ心をつかむことはできない。それは誰に教わるものではなく、私がここで踊りながら体得していったものなんです。