祈りがもたらすもの(「都市問題」)

エジプトを初めとするアラブ・イスラム圏をテーマに取材を始めて15年になる。当時も今も、人と人との温かなつながりのようなものに、はっとさせられることが多い。道を聞けば、その場所まで連れて行ってくれる。車いすの人が電車を降りようとすると、周囲からさっと人が集まってくる。お年寄りが道路を渡ろうとすると、青年が駈け寄ってきて手をつなぐ。こういった人の優しさやぬくもりは、いったいどこから来るのだろうと考えたとき、一つには宗教が生活の基本にしっかり根付いていることが思い浮かぶ。

 誰もが、食事の前には「ビスミッラー(神の御名によって)」といい、食事がすめば「アル・ハムドリッラー(神のおかげで)」という。ラマダンは国を挙げての一大行事である。金曜日の集団礼拝には、モスクに入りきらない人びとが道路にまであふれ、交通が阻害されるほどだ。

イスラムの教えは「親にやさしくすること」、「食べるものを粗末にしてはいけない」、「人を殺してはいけない」、「貧しい人に施しをすること」などシンプルなものが多いことに驚く。いわば人間としてあたり前のこと、人としていかに生きるべきかを説いている。人びとは常に自分の行いを宗教の教えに照らして正しいかどうか考える。なぜなら「この世の終わりに神が審判を下し、良い行いをした人は天国へ行き、悪いことをしたら地獄へ堕ちる」ということを、ほとんどの人が心の底から信じているからだ。そして誰もがいう。「悪いことをしないのは、警察が怖いからではない。神を恐れるからだ」と。日本で近年見られる無差別殺人や肉親を殺すなどといった話は滅多に聞かれないが、それは人として踏み外してはいけない一線を、宗教を実践する中で誰もが自然と意識しているからに違いない。

 それでも、買い物しようにも店主がモスクに礼拝に行っていていない、ラマダン中で食堂が閉まっているなどという経験をすると、宗教が生活のほとんどのすべての物事に優先するかのような生活スタイルと、それによって生じる不自由さ、非効率性といったものに腹立たしささえ覚えたものだ。一日五回の礼拝も、当初私にとっては非生産的な行為にしか思えず、多くの時間を費やす意味がわからなかった。

 その見方を変えられたのは、エジプトのベドウィン女性と砂漠で暮らし初めてからだ。砂漠で生まれ、今も砂漠で一人で暮らす彼女は、ことあるごとに「神」を口にする。砂漠には毒蛇がいて、噛まれれば死ぬこともあるが、「私には神がついているから大丈夫」だという。9人の子どもたちをすべて砂漠で一人で産んだことについて、「神が見守っていたから」怖くなかったという。毎日5回の礼拝を欠かさない彼女にとって、まるで祈りが生活の中心にあるかのようだ。やがてその祈るという行為、神の存在を信じることが、大きな心の安定につながっていることが、私にもようやく理解できるようになった。それはきっと、他の多くのイスラム教徒にとっても多かれ少なかれ同様に違いない。

 ラマダンが好きだというイスラム教徒は多い。日の出ている間中飲食を絶つという修行にも見える行為に、誰もが喜々として参加する。ラマダン中は、ふだんすれ違いの家族も多くは断食明けの食事を一緒にとり、その後は友人や親戚を訪問し合う。断食明けに家族や友人と食卓を囲む楽しさ、それによって感じる一体感や他者とのつながりや断食によって知る食物のありがたみに比べたら、断食の苦しみなど取るに足らないものなのだろう。日中は空腹のために仕事の能率は落ちるというが、ラマダンが良くないという意見は聞かない。

そして私はふと考える。そもそも能率とは、人間の創ったちっぽけな概念にすぎないのではないか。そして効率や生産性という名のもとに捨て去ってしまった多くの豊かで奥深いものが、イスラムを信じる人びとの間には今も生き生きと息づいていることを感じ、私はたまらなく羨ましくなる。

 

(「都市問題」 第 100 巻 第 9 号)

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